まんだらアートへの想い

 

まんだらが表すのは

 『すべてのもの個性を発揮し、それらがバランスよく安定した調和の世界』

 

それは、

「あなたにある個性。」

「あなたに無い個性。」

「あなたでない誰かが持っている個性。」

さまざまな個性が集まっているからこそ調和が生まれる【輝く世界と未来】を象徴しているかのよう

 

輝く世界と未来を象徴する曼荼羅を美しいと素直に感じ取れる感覚

美しい世界観を曼荼羅で表現する

 

平和でバランス良い安定した波動を生み出し、あなたにとって安心安全で、願いが叶いやすい環境に「場」を整えてくれるまんだらを『美しい 色の花の螺旋』で描いたアート

それが【まんだらアート】なのです

 

 


 

私が曼荼羅アートと出会ったのは、10年近く前のとある日のことでした。

 

突然、友人からこんなことをたずねられました。

「ねぇ、曼荼羅アートって知ってる?」

「曼陀羅?うん、わかるよ(脳内にはぼや~っと両界曼荼羅が浮かんでいる)」

「それさ、描いてみない?」

「いやいやいや、あれは描けないっしょ。絵心ないし(脳内にはぼや~っと胎蔵曼荼羅が浮かんでいる)」

「それがさ、描けるの。好きそうだなって思ってさ、これよこれ、こういうの」

と、ここで初めて点描曼荼羅アートと出会いました

「え?ナニコレ。仏教画じゃない」

「あー、そっち想像しちゃってた?」

「うん」

「で? 好きでしょ、こういうの」

「うん、好き。確かにこれは描けそうだわ」

と、差し出された曼荼羅アートを凝視する私に追い打ちのように

「絵心なくても定規とコンパス使えればできるのよ!」

の言葉。

 

”っていうことは、この弧の部分は円の一部で、円の一部と一部からたぶんこのパーツが成り立ってて、この直線は・・・・・・

何よりも先に興味を引いたのは形。

線対象であり点対称であるそのデザインに心惹かれ、それからそれらを彩る色彩。

この点はなにで描いてる? この細かさだと水彩、アクリル、油絵具、パステル、それから色鉛筆やクレヨンも使えないな。ってことはペン?黒に書けるペンってこんなにあるか?”

 

笑っちゃいますよね

初めて見た曼荼羅アートの感想が「キレイ!」だとか、「すごい!」といった感動よりも、「図形」そのあとに「色彩」といった理屈的な部分の解析。

そんなファーストコンタクトでしたが、心惹かれたことにはかわりなく、それから私は曼荼羅アートを学び始めました

 

ある程度自分でデザインしてオリジナルなものを描くようになったころに、躓きました。

 

描けない。

進まない。

なんで?

 

 

あまりにも描けなさすぎて、何がひっかかっているのか、分析が始まります。

下図を描くのは楽しいし、実際描けているからここが問題ではない。

ならば、下図の中から浮かびあがるパーツを拾い上げて、色をのせていく?

この前半部分も問題はない。

となると後半部分の「色をのせる」がネックの様。

 

じゃあなぜそこで躓く?

 

分からないので、とりあえず描き続けてみました。

何枚も描いているうちに、躓くことなくするっと描き上げることもあったけれど、下絵だけで止まったり、少し色を入れた状態で止まったりしてる作品が随分と多くなってきたころ、なんとなく法則性が見えてきました。

 

その法則とは

「頭で考えると描けない」

ということでした。

 

下図の中からパーツを拾い上げるところまでは問題ないのです。

「この色を入れたらこの隣には、対比する色でこの色を入れたら映えるけど、そうするとここの部分との色の対比がなんか悪いよな。同系色ばかりよりも、差し色を入れるほうがいいし・・・・・」

 

自称:左脳派の私

 

色を入れるのもそんなことを考えてそんなことにフォーカスしていたのです。

すると面白いくらいにとたんに手が止まり描けなくなる。

途中まで色を入れている作品も、ふとそんなことを考えてしまったところからピタッと手が止まる。

 

じゃあ、さくさく進んでた時は?

「ん~~~、これ」

「ピンクかな、あれ?紫持ってる。じゃあ、紫で」

 

そう、考えてないんです。

 

感覚で、なんとなく、何かが自分を通して色を選んでる。

 

そんな感じなんです。

 

それに気づいてから、できるだけ考えるのをやめるようにしました。

より正しくは「色を選ぶ行為にフォーカスすること」をやめるようにというほうが良いのかもしれません。

これは私にとっては簡単ではありませんでした。

なにせ、自称:左脳派だと認識していたのです。

感覚的にとらえるとか直感的な「右脳」の部分を使うことに意識してきたことがなかったのですから。

 

それからしばらくは「曼荼羅アート=右脳強化訓練」でした

 

自分の感覚や直感に従う、理屈でそれに抗わない。理屈と感覚や直感を混ぜ合わせてバランスをとっていく。どっちが大事でどっちが大事じゃないとかじゃなく、両方大事で両方がバランスよく活動してることが大切ってことなんよね・・・・・・

そうしてやがて、さくさくと色を入れられるようになり、10cmや15cmサイズのものだけでなく、30cmの額に飾れるような大きなサイズの作品を描けるようになりました。

 

 

安定して曼荼羅アートが制作できるようになり、数年した頃

ひょいと私の中に飛び込んできたものがありました。

 

それは「動の運命学」とも「自分自身の取扱説明書」とも称される【九星気学】です。

 

九星気学とのファーストコンタクトはあっさりとしていて、そんなに心惹かれなかったのですが、気が付けば九星気学鑑定を受け、九星気学セミナーを受講していました。

そんな中、ふと思ったのです。

 

「これ、曼荼羅アートに取り入れられないかな」

 

その視線で見れば、九星気学の鑑定で導き出される「星」が感覚ではなく理論的な視点で色に見えてきます。

「九紫火星・・・紫に赤だな」

といった具合に。

 

それぞれの星にそれぞれの色があり、それらでその人のためのその人自身をあらわす曼荼羅アートにできるんじゃないかな。

 

しかもこれって、「描きたい」って思った人にもとてもシンプルに、でも難しすぎず簡単すぎないっていう曼荼羅アート活動をしてもらえるんじゃない?

 

ここで私の頭をよぎっていたのは、曼荼羅アートを始めてしばらくして「色が入れられない」状態に陥っていた時のことです。

星の色があるなら、色が選べなくて描けない進まないというハードルをうんと下げることができます。

それでいて、自分のために、誰かのために特別な一枚を仕上げることができるのです。

 

それからでした。

まずは九星気学を取り入れた曼荼羅アートを新たに描き始めました。

九星気学をどこまで取り入れるのか、曼荼羅アートでどう表現するのか。

自分自身のためにというよりも、誰かのために描くもの。

その人自身をあらわす唯一のもの。

そうしてたどりついたのが

あなたの「星」を九星気学から導き出し、

世界に一つしかないあなたのためだけのまんだらアートを制作する

【あなたのためだけの九星気学まんだらアート】でした

 

ですが、この旅はそこで終わりませんでした。

描けば描くほど、次の想いが湧き出てきます。

『これは私一人が描くものではなく、ほかの人と共有し多くの人にも描いてもらいたい。』

という思いが強くなるのです。

 

多くの人に描いてもらいたいからこそ

 

・だれもが自分のために、そして自分だけでなく誰かのために特別な一枚を描き出すことができる

・しかも、シンプルだけれど、難しすぎず簡単すぎない技法で描くことができる

 

そのための方法を模索し【九星気学まんだらアート講座】は出来上がりました

 


これを始めたことで何が起こるのか、なにがもたらされるのかはまだわかりません

 

 

けれど九星気学まんだらアートを含め曼荼羅アートを手にしてくださった方々が

 

・ほかの人のもきれいだなとも思うけど、自分のが一番きれいだと思います

・じっと見て瞑想をしていると、ひとつひとつの先に宇宙との繋がり、パラレルワールドの世界が拡がっており、無限の可能性を秘めている。それは、外側からではなく、私の内側発信。今までの発想から得るより、殻を破り前に進んでく必要がある。そんなメッセージを感じました

・目が合うってこのことなんだなって思いました。ほかにも並んでいたのに、「これ、私のだ」っていう感じがして手に取っていました。

・私には白は似合わないと思っていたのに、九星気学鑑定の曼陀羅アートに白か多くてぼっく利しました。けど、私に「白」の要素があっていいんだって、なんかすとんと腑に落ちたような感覚がしました。

・眺めてるだけで不思議と心が落ち着いてきます。

 

といったお声を下さるということは、

私にしかできない何かが、私だから描ける何かがあるのだと思っています

 

 

 私だからこそ届けられる何かがある

 それを信じて、これからも留まることなく世界を広げ続けて行きます。

 

まんだらアーティスト 中里真由美